誰もが知る伝説の起業家、カーネル・サンダースがケンタッキーフライドチキンを創業したのは65歳のこと。
“真面目で不器用な性格”が裏目に…職を転々とした30代
これまでの経歴
母の再婚により、10代で家を飛び出したカーネル・サンダースは、職を転々としてきました。学歴は日本でいう小学校卒業程度ですから、苦労したのではないでしょうか。陸軍、機関車の灰さらい、機関士、路面電車の車掌、ペンキ塗り、弁護士、保険外交員、フェリー会社の経営、商工会議所の秘書、ガスランプの製造販売、タイヤのセールスマン……。これだけ職を変えるとダメ人間という印象ですが、いつも全力で一生懸命だったのは間違いないようです。でも、毎回それが裏目に出てしまった。
ガスランプの製造販売には大金をつぎ込んだのですが、不運にも時代はちょうどガスから電気に移り変わるころでした。この事業の失敗で、サンダースは全財産を失っています。
サンダースが30代を過ごした1920年代のアメリカは、フォード・モーターの「T型フォード」が大ヒットし、自動車が一気に普及した時代でもありました。
ある日、サンダースに、タイヤのセールスマン時代に知り合った石油代理店の偉い人が声をかけます。需要が増しているガソリンスタンドを経営してみないか、というのです。
サンダースはこの話に乗り、もはや人生でいくつ目の仕事か分かりませんが、ガソリンスタンドを始めます。場所は、アメリカ中東部にあるケンタッキー州。ガソリンスタンド自体はアメリカ中で増えていたのですが、何しろまじめで一生懸命なサンダースですから、彼の経営するガソリンスタンドはひと味違いました。
何がすごいって、ホスピタリティです。立ち寄った車に単にガソリンを入れるだけではなく、窓は拭く、タイヤの空気圧はチェックする、パンクしていたら無料で修理すると、徹底したおもてなしをしました。頑張り屋のサンダースらしいガソリンスタンドです。
その甲斐あって、サンダースのガソリンスタンドは繁盛します。わざわざ遠回りしてまでサンダースのところまで来るお客さんも多かったとか。こうして40歳手前にして、ようやく商売が軌道に乗り始めたサンダースでしたが、人生は非情でした。
40歳手前、世界的な大恐慌で2度目の破産
1929年、アメリカの株価暴落をきっかけとして世界的な大恐慌が発生します。そのあおりを受けてガソリンスタンドも経営が立ち行かなくなり、サンダースは再び全財産を失います。
普通、絶望しますよね。だって、機関車の灰さらいから始まって築き上げた財産を、ガスランプ事業の失敗ですべて失い、そこから立ち直ってもう一度頑張ったのに、再び破産したんですから。しかも、どちらも原因は社会にあって、サンダースのせいじゃない。サンダースは頑張ってきたのに……。
それでも、サンダースはあきらめませんでした。
決め手になった娘の一言
十数の職を転々としたサンダースですが、ガソリンスタンド経営には何かピンと来るものがあったようです。あきらめが悪いサンダースは、新しいスポンサーを見つけ、同じケンタッキー州の別の場所で再びガソリンスタンドを開きます。
前回のお店とは一つだけ違う点がありました。小さなカフェを併設したんです。
サンダースは、ガソリンスタンドに来る客の多くがお腹を空かせていることに気づいていました。今の日本のように、あちこちに飲食店があるわけではありませんから、長時間の運転でドライバーは空腹になります。
サンダースは、家族にもそういう話をしていたのかもしれません。あるとき、娘さんがこう言ったそうです。
「お父さんの作るごはんはおいしいから、お客さんに出してみたら」。
この一言が決め手になり、サンダースはガソリンスタンドの隣に軽食がとれるカフェを出すことにしました。もっとも、「カフェ」といっても物置小屋に椅子を6脚、テーブル一つを置いただけですが、名前だけは立派に「サンダースカフェ」と名づけ、サンダース自ら厨房に立ちました。
カフェのメニューは、豆料理にマッシュポテト、グラタンといった素朴な家庭料理ばかり。中でもドライバーたちから人気が高いメニューがありました。それが、フライドチキンです。
子供のころにお母さんから教わった思い出のレシピ
鶏肉に衣をつけて油で揚げたフライドチキンは、別にサンダースや彼のお母さんの発明したものではありません。アメリカの南部ではよくある料理でした。
大衆食だからこそ、裕福ではないサンダース家でも食べていたわけですが、サンダースはお母さんのレシピに基づいて、非常にこだわってフライドチキンを作りました。スパイスとハーブを混ぜた小麦粉を鶏肉にまぶし、油で30分以上かけてじっくり揚げる。すると、香り高くてジューシーな、とてもおいしいフライドチキンになるのです。
これこそが、あのフライドチキンの始まりでした。
おいしいフライドチキンを出すカフェつきのガソリンスタンドはケンタッキー州の名物になり、大繁盛。それを見たサンダースはガソリンスタンド事業を辞め、カフェ一本でやっていくことにします。物置小屋から始まったサンダースカフェはどんどん成長し、数年のうちに大きなレストランになり、支店もいくつか出すくらいに成長しました。
カーネル・サンダースの誕生
地元の名士になったサンダースには、1935年に州から「カーネル」の称号が授けられます。カーネル・サンダースの誕生です。
このとき、サンダースは45歳。
当時の米国人男性の平均寿命は60歳に届きませんから、今の日本の感覚だと60歳超えでしょうか。無数の職業を経験し、2度の破産も経験した男が人生の終盤でついに成功を収めたんです。
それは、彼が子供のころから大好きだった料理によってでした。
65歳に始まった人生のクライマックス
50歳になる直前には、夜中に火事でお店が全焼する悲劇に見舞われました。このときにはさすがのサンダースも10時間くらい落ち込んだようです。しかし翌日の午前中には立ち直り、焼け跡にトラックを乗り入れて、再建を始めていたとか。彼らしいですね。お店のファンの支援もあったといわれています。
そうこうしているうちに、サンダースは65歳になっていました。平均寿命を超えたわけですから、もう引退を考えていい年齢です。国道沿いのサンダースカフェは立地の良さもあり、相変わらず大繁盛。家出少年だったサンダースは「カーネル・サンダース」として、静かな余生に入ろうとしていました。
しかし、ここからが彼の人生のクライマックスだったのです。
売るものがない? ならば…
第二次世界大戦後のアメリカでは高速道路の建設が盛んになりました。サンダースカフェがあったコービンの外れにも高速道路が完成します。すると、サンダースの店の前を通る国道の利用者が高速道路に流れ、客足が一気に遠のきました。売り上げは落ちていき、ついには全盛期の半分以下になってしまいました。店は大赤字です。
不屈のサンダースはこのとき、人生で初めて白旗をかかげます。店を畳んで引退することにするんです。無理もありませんが、このときばかりはサンダースらしくなく、決断までに時間がかかったようです。
それが致命傷になりました。迷っているうちに負債が溜まっていき、最終的には店を売っても手元にお金が残らないくらいのダメージを負ってしまったのです。その上、まじめに払ってきた年金の支給額は、家族が暮らしていけないほど微々たるものでした。
65歳のサンダースはまたもや全財産を失いました。
まったく予測不能な社会の変化によって、人生の最終盤にして、サンダースは最大の危機を迎えます。普通ならあきらめますよね。しかし、彼はカーネル・サンダース。ここから、サンダース最後の挑戦が始まります。
サンダースは考えます。今の俺の手持ちの武器は何だ? 金はないから、店を作ることはもうできない。体はヨボヨボ。家族と中古車1台しかない老いぼれに何ができる? そうだ、自分にはフライドチキンがあるじゃないか。最高のフライドチキンの作り方を知っているじゃないか。
フライドチキンの店を出す体力は、金銭的にも年齢的にもありません。でも、彼の頭の中にはレシピが入っています。子供のころにお母さんに習ったレシピが。サンダースはそれを売ろうと考えました。今でいうフランチャイズです。
ケンタッキーフライドチキンの誕生
決めたら早いサンダースは、ピート・ハーマンというレストラン経営者の友人の家に押しかけて、「外にメシでも行こうぜ」というハーマンを無理やり座らせ、フライドチキンを作り始めます。
サンダースが工夫して開発したレシピを用いたフライドチキンは火力の劣る一般家庭の台所で作れる料理ではありませんから、調理にはものすごく時間がかかります。出来上がったころには深夜になっていたそうです。
イライラしながら待っていたハーマンと彼の家族ですが、出てきたフライドチキンを一口食べた途端、大感激。それはそうですよね。ただでさえおいしいのに、深夜まで待たされてペコペコのお腹で食べたら、言葉を失うでしょう。サンダースからすると、狙い通り。ハーマンにビジネスの話をもちかけます。
このレシピを使って商売をしないか?
前例のないビジネスにハーマンも少し迷ったようですが、少し経って決断しました。
「乗った。自分がチキンを1ピース売るたびに4セント払う。これでどうだい?」
サンダースはもちろん承諾。こうしてフランチャイズ1号店がオープンしました。
ハーマンはこうも言ったようです。
「ここはケンタッキー。だから、これは『ケンタッキーフライドチキン』だ!」
白いスーツに蝶ネクタイ。車中泊で営業活動
自信をつけたサンダースは、中古車にチキンを揚げるための圧力釜と秘伝のスパイスを積み、家族と一緒にレストランを巡ります。車中泊をしながら、田舎の料理のレシピを売りつけようとする怪しげな老人。サンダースは少なくとも1000回は門前払いを食ったといいます。でも、サンダースにとって断られることなんて屁でもなかったのでしょう。70歳近いサンダースはあきらめずに営業を続けます。
このときサンダースが着ていたのが、あの真っ白なスーツと蝶ネクタイでした。ケンタッキーフライドチキンの店舗前にあるサンダースの人形のスタイルです。サンダースは営業先のキッチンを借りてフライドチキンを作ってから、あのスーツに着替えてフランチャイズを持ちかけたのでした。
どうですか? おいしかったでしょう? と。
このビジネスは大当たりします。最初の1年こそ7店としか契約を結べませんでしたが、翌年からは爆発的にフランチャイズが拡大し、あっという間に数百店の規模に広がっていきました。
90歳で生涯を閉じるまで、世界中を飛び回っていたサンダース
全米の店舗数が600を超えたとき、サンダースは74歳になっていました。ビジネスが自分の手を離れたと考えたサンダースは、若い実業家のジョン・ブラウン・ジュニアに権利を売って一線から退きます。ジョンはのちのケンタッキー州知事です。
サンダースは走ることをやめたわけではありません。その後もケンタッキーフライドチキンの顔として、日本を含む世界中の店舗を飛び回りました。彼は店舗を一つひとつチェックして回ったんです。自分のレシピがちゃんと守られているかを確認するために。
そして1980年、ケンタッキーフライドチキンの店舗数が世界で6000を超えたころ、サンダースは90歳で生涯を終えました。棺に納められたとき、彼はあの白いスーツを着ていたといいます。
人生のクライマックスはずっと先
このとんでもない男の生涯から、僕たちは何を読み取ることができるでしょうか。
彼の生涯に社会の変化が大きな影響を与えている点は見逃せません。ガスランプ事業の失敗も、ガソリンスタンドの(一時的な)成功も、サンダースカフェの失敗も、いずれも社会環境の変化が原因でした。サンダースほどの人間でも、環境の変化には勝てなかったのです。
しかし彼はあきらめず、ひたすらトライ&エラーを続けます。
するとあるとき、ふと、今までの人生で張ってきた伏線が一気に回収され、幼少時からなじんできた料理がきっかけとなって、人生がクライマックスを迎える。彼の場合、それは65歳を過ぎてからのことでした。
僕はいつも思うのですが、30代や40代くらいで「成功した」「失敗した」と言うのはやめましょう。不毛です。そもそも何をもって成功というのか難しいですし、それは別にしても、せめて80歳くらいまでは待ちましょう。人生、何がどうなるかなんて分かりません。
サンダースに限らず、歴史上の偉人は多くが遅咲きです。ガンディーや孔子のことを思い出してください。彼らも遅咲きでした。それだけではありません。劉邦も、桓武天皇も、伊能忠敬も、ヘンリー・フォードも、ネルソン・マンデラも、シルヴェスター・スタローンも、みな遅咲きです。
なぜ偉人は遅咲きが多いのでしょうか? 理由の一つは、人は歳を取るほどしょぼくれていくように思われがちですが、実際は逆にどんどん可能性が広がり、加速していくからではないでしょうか。
だから、まだ若いうちから絶望したり有頂天になるのはやめましょう。
あなたの人生はまだ、ちまちまと伏線を張っている段階にすぎません。クライマックスはまだまだ、ずっと先なんです。